ライカ(Leica ) とは、ドイツの光学機器メーカーとそのブランドである。
エルンスト・ライツ1世(Ernst Leitz I、1843年-1929年)によってヴェッツラーに創業されたエルンスト・ライツ光学機器製造会社(Ernst Leitz Optische Werke)が、その販売するカメラに「Leitz Camera(ライツ社のカメラ)」と名付けたことに由来するブランドである。このカメラは後にエルンスト・ライツの主力商品となった。以降コニカ、フジカ(富士フイルム)、ヤシカなど「ライカ」に倣ったカメラブランドが作られた。
エルンスト・ライツは1974年にスイスのウィルド傘下に入った。その後エルメスに一時期買収され、その時期にはその革を使用した特別モデル等も発売されていたが経営状態の改善が進まず2年で売却された。現在は顕微鏡部門のライカマイクロシステムズ(Leica Microsystems GmbH)、測量機器部門ライカジオシステムズ(Leica Geosystems AG)、そしてカメラ部門のライカカメラ(Leica Camera AG)の3社に分かれている。
エルンスト・ライツに勤めていた技術者、オスカー・バルナックは1913年、35mm映画フィルムの2駒分を使用する小型カメラ「ウル・ライカ」を試作した。試作した理由として「無類の写真好きであったが、小柄で体力もさほどなかったバルナックにとって当時主流のガラス乾板を使用する木製大型カメラを持ち歩くことは困難だったため、自分にとって使いやすいカメラを求めて作り上げた」という説、「映画用カメラの開発に従事していたバルナックが、当時感度も低く品質も安定していなかった映画フィルムの適正露出を調べるためにそのフィルムの一部を使い実際に撮影してチェックするために開発した露出テスト用カメラが、スチルカメラとしても流用できることに気づいた」という説など諸説ある。
その後2代目社長に就任したエルンスト・ライツ2世(Ernst Leitz II)がウル・ライカに着目、改良を加えて1925年に市販一号機ライカI(A)を生産、販売することになる。
それまでのカメラは密着焼きにより写真を作るのが主流であったが、ライカはフィルムが小さく引き伸ばしを前提としたため、当時一般的でなかった引き伸ばし機は当初からシステムの一環として販売された。拡大に耐えるネガを作るために高性能のレンズが必要とされ、レンズ開発の技術者マックス・ベレークはライツ・アナスティグマット(Leitz-Anastigmat)をはじめとするさまざまな銘玉を世に出した。
また一般には「広角気味のレンズを常備し必要ならトリミングする」という手法が使われていたが、ライカの場合トリミングするとただでさえ小さいフィルム面積がさらに小さくなるため、画角に合ったレンズ交換の必要性が高かった。このため1930年レンズ交換が可能なライカC型が開発され、1931年に全てのカメラのフランジバックが統一され、エルマー(Elmar)3.5cmF3.5、エルマー5cmF3.5、エルマー9cmF4、エルマー13.5cmF4.5、そしてヘクトール(Hektor)5cmF2.5と基本的なレンズが揃った。
その後連動距離計を搭載したライカII型(1932年)を発売、交換レンズとして1931年にヘクトール7.3cmF1.9、1933年にズマール(Summar)5cmF2が発売され、とりわけ報道写真において卓越した画像を多数提供したため、ライカの名声は不動のものとなった。また極めて優秀な人物撮影用のレンズ、タンバール(Thambar)9cmF2.2が1934年に供給され、現代の写真撮影のライカ判全盛の基礎を確立した。
暗い場所での撮影のための大口径レンズ、広角や望遠での撮影のための交換レンズを揃えても2?3kgに収まり、写真家はかつての重い撮影機材から開放された。このことは僻地に持参する時や、被写体の動きを素早く捉えたい時にも役立った。ただし小さいフィルム面積に重要な画像情報が凝縮されており画質のディテールが損なわれることから、旧来のフォトグラファーからは「撮影機材ではなく『スパイカメラ』にすぎない」等と蔑視されることもあった。
当時の日本のカメラメーカーはライカを目標にして技術開発を行っていたが、1954年に発表されたレンジファインダーカメラのライカM3は当時最高とまで言われるほどの技術を余すところなく投入しており、その性能の高さのあまり日本のカメラメーカーがそろって一眼レフカメラへと開発方針を大転換させるきっかけになった。ライカM3は今でも名機と賛美する人が絶えないが、このことが逆に現在主流の一眼レフカメラへのライカの参入を遅らせてしまうことにもなり、1974年頃エルンスト・ライツ社はスイスのウィルド傘下に入ることとなる。
現在ではライカM3の後継となるレンジファインダーカメラ「Mシリーズ」や一眼レフカメラ「Rシリーズ」、コンパクトカメラ、プロジェクター、フィールドスコープなど、さまざまな製品を開発・販売している。そしてそのレンズ描写性能などクオリティの高さから現在でもプロカメラマンをはじめアマチュアでもコレクターや愛好者が多い。またデジタルカメラの分野においてもパナソニックと提携を行っている他、Rシリーズ用のデジタルカメラモジュールやMシリーズのデジタル版ライカM8の開発・発売、中判クラスのデジタル一眼レフカメラS2の開発発表、デジタル一眼レフカメラ共通規格である「フォーサーズシステム」への賛同などが行われている。
日本代理店は戦前からシュミット商会が行っていたが、ウィルド傘下に入った1974年にウィルドの代理店だった日本シイベルヘグナーに変更、その代理店契約が切れた2005年3月1日に日本法人ライカカメラジャパン株式会社を設立、2006年4月22日にはライカ初の直営店を東京・銀座に開店している[1]。
カメラ製品一覧 [編集]
バルナック型ボディー [編集]
ライカLマウントのレンジファインダーカメラ。ただし初期にはレンズ固定であり、レンジファインダーを搭載しなかった。レンジファインダーを装備しない機種も後々まで作られた。レンズに関してはライカマウントレンズの一覧を参照のこと。
ウル・ライカ(Ur Leica 、1913年製作):試作機。暗室で35mm映画用フィルムを詰め、その2コマを1コマとして使用する。「Ur」とはドイツ語で「最初の」を意味する。フィルム巻上と同時にシャッターがセットされるセルフコッキング方式。巻上時にはキャップをしなければならない。レンズは二段に沈胴するマイクロズマール64mmF4.5固定。当時はまだパトローネ入りフィルムはなかったので、装填取り出しは暗室で行う。3台が製作され、1台はバルナックが自分用に使い、もう1台はエルンスト・ライツ1世が所有した。その内の2台が現存している。1975年にライカ発売50周年を記念したレプリカが製作され代理店などに配られたが、これは外観だけを再現したダミーであったため撮影には使えない。
ライカ0(Null Leica 、1923年製作) - ウル・ライカの市場調査用としてシリアルナンバー100から130までの31台が製作された。金属剥き出しの黒塗りだったボディーに革が張られた。ファインダーは当初折畳式の枠ファインダーだったが後にガリレオ式に変更されている。レンズは沈胴式ライツ・アナスチグマット(Leitz-Anastigmat )50mmF3.5固定。シャッタ−はスリット幅可変となりスリット幅2mm(1/500秒相当)-50mm(1/20秒相当)。マガジンを採用し日中のフィルム交換が可能になったが、シャッター幕の構造上フィルム巻き上げ時にはレンズキャップを付けなくてはならない。2001年に折り畳み式のファインダーを装備したバージョンの復刻版が販売され、このモデルではパトローネ入り35mmフィルムが使用できるようになっている。
ライカI(A)(Leica A 、1925年発売)- レンズは沈胴式固定、当初3群5枚ライツ・アナスチグマット50mmF3.5であったが、1925年内容はそのままにエルマックス(Elmax)と改名された。1926年にはゲルツからガラスの供給を受けて製造された沈胴式3群4枚エルマー(Elmar)50mmF3.5[2]を装備したが、ゲルツが1926年にツァイス・イコンになってガラスの供給が止まると1928年にはショットから供給されたガラスでエルマー50mmF3.5[3]が設計された。1930年からは後に交換レンズとしても供給された沈胴式ヘクトール(Hector)50mmF2.5固定となった。
ライカI(B)(Leica B 、1926年発売) - レンズシャッターであるコンパーを装備した。レンズシャッターが採用されたのは、スローシャッターを備えるからだと思われるが、フォーカルプレーンシャッターもスローシャッターを備えるようになったので以後再びフォーカルプレーンシャッターを装備するようになり、レンズシャッターを装備したライカはこの機種だけである。前期型はダイヤルセットコンパー、後期型はリムセットコンパー。
ライカI(C)(Leica C 、1930年発売) - 50mmのファインダーのみ装備する。いわゆる「ライカマウント」[4]を装備しレンズ交換を可能とするが、当初はフランジバックが統一されておらずボディーとレンズに記入された3桁の数字が合致する場合しか使えなかった。1931年にフランジバックが28.8mmに統一され、カメラ毎にレンズを調整する必要がなくなった
ライカII(Leica II 、1932年発売) - レンズのピントリングと距離計が連動する連動距離計を装備し、いわゆる「バルナックライカ」の典型的な姿になった最初のモデル。日本名はライカDIIだったが最近は日本でも単にライカIIと表記されることが多くなっている。
ライカスタンダード(Leica Standard 、1932年発売) - ライカIIから距離計が省略され50mmのファインダーのみ装備する。ライカI(C)とほとんど同じ。1950年まで製造された。
ライカIII(Leica III 、1933年発売) - ライカIIにスローシャッター、視度調整装置、ストラップを装着する金具が装着された(ライカIIの極一部にも装着)。日本名はライカDIIIだったが最近は日本でも単にライカIIIと表記されることが多くなっている。
ライカ250(Leica 250 、1933年発売) - 長尺用マガジンに長さ10mのフィルムを装填し250枚の撮影をする。ダブルマガジンで巻き戻しの必要がない。当初はライカIIIベース、後にライカIIIaベースとなった。通称リポーター(Reporter )
ライカ250モーター(Leica 250 Motor ) - ライカ250にゼンマイ式巻き上げ装置ライカモーター(Leica-Motor )を装備した。
ライカIIIa(Leica IIIa 、1935年発売) - 1932年に発売されたコンタックスに対抗して1/500秒だった最高速が1/1000秒になった。シャッターブレーキが装着されシャッター幕のバウンドがなくなった。スローシャッターにクリックストップがついた。Montesarの刻印があるものはフランスのMontesar工場で生産されたもので「モンテザールライカ」と呼ばれ珍品とされる。
ライカIIIb(Leica IIIb 、1938年発売) - 離れていた距離計の窓とファインダーの窓が隣り合わせになり僅かに目を動かすだけで両方を見られるようになった。
ライカIIc(Leica IIc 、1948年発売) - ライカIIIcからスローシャッターを除いたモデル。シャッター最高速も1/500秒に留まる。
ライカIc(Leica Ic 、1949年発売) - ライカIIcからさらに距離計とファインダーを除いたモデル。アクセサリーシューが2個つく。
ライカIIId(Leica IIId 、1949年製造) - ライカIIIcにセルフタイマーを装備した珍品。427台が製造されたが発売はされなかったと言われている。ライカIIIcにライカIIIfのセルフタイマーを組み合わせた偽物が多数ある。
ライカIIIf(Leica IIIf 、1950年発売) - フラッシュシンクロを装備したモデル。フォーカルプレーン用のシンクロ規格がなかったためフラッシュの種類とシャッタースピードでリストからコンタクトナンバーを選んで設定する煩雑な設計になっている。後期型はセルフタイマーを装備する。
ライカIIf(Leica IIf 、1951年発売) - ライカIIIfからスローシャッターを除いたモデル。シャッター最高速は1/500秒に留まっている。
ライカIf(Leica If 、1952年発売) - ライカIIfからさらに距離計とファインダーを除いたモデル。アクセサリーシューが2個つく。
ライカ72(Leica 72 、1955年発売) - 24×18mm判。ライカIIIaをベースにカナダのミッドランドとドイツのヴェッツラーで製造されたハーフ判カメラ。ごく少数の例外を除きライカIIIfと同じシンクロ装置を備えている。生産台数は約200台。
ライカIIIg(Leica IIIg 、1957年発売) - ライカM3と同様のパララックス自動補正ブライトフレームファインダーを装備したモデル。枠は50mmと90mmm、ただし自動で切替されない。ファインダーの大型化に伴いライカIIIfとの比較で高さ4mm、奥行1mmほど大きくなっている。
ライカIIg(Leica IIg 、1957年製造) - ライカIIIgからセルフタイマーを除いたモデル。正式に発売されたかは不明で珍品。
ライカIg(Leica Ig 、1957年発売) - ライカIIIgから距離計とファインダーを除いたモデル。Iシリーズでは例外的にスローシャッターは装備される。アクセサリーシューが2個つく。
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