2009年06月15日

保存食のはじめは、手作業・手作りの時代である

保存食の歴史を考える場合、現代に至るまで少なくとも2つの大きな転換点がある。缶詰の発明と、冷蔵(冷凍)技術の発達である。

保存食のはじめは、手作業・手作りの時代である。この時代の保存食は、天然の素材と自然界にある様々な現象を最大限に利用して、保存しやすくするような工夫がされていた。塩蔵、糖蔵、乾燥、燻製、発酵などである。保存のための技法により、良い意味でも悪い意味でも食品の性質は大きく変化してしまう。また、加工後の食品を食べるには特殊な調理が必要となる場合も多い。このため保存方法それぞれに特化した調理法や食文化を発生させている。
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次は、缶詰の時代である。1804年にフランスで広口ビンに食品を詰める「ビン詰め」が発明され、1810年金属容器が発明されて「缶詰」が生まれる。これらは軍用食という需要があって開発された技術だが、これの加熱殺菌と密封によって、食品の風味をあまり損なわない長期保存が可能となった。しかもこれらは調理済みであるため、容器を開ければ、そのまま食べることが出来る。当初は軍用食として開発された缶詰であったが、その有用性・利便性が知れ渡り19世紀の中頃より現在に至るまで、一般でも広く量産され続けている。

最後は、冷凍保存の時代である。低温で腐敗菌の繁殖を抑え長期の保存を可能にした。調理済みのもの、半調理済みの素材、生の素材(食品による)、いずれも冷凍により保存が可能である。缶詰よりも更に食品の性質変化は少なくなった。

この変化以降にも、缶詰の技術を応用し合成樹脂のフィルムに密封したレトルト食品や、乾物(凍結乾燥)の技術を発展させたフリーズドライも保存食の歴史を変える大きな技術革新であった。こういった変化は、人間の社会のありようが変化して行く中で、そこに生活する者の食料を保存・輸送し安定して供給する上で役立っており、一般から宇宙開発など先端の分野(宇宙食)まで、幅広い分野で利用されている。

2009年05月30日

幾島

幾島(いくしま、文化5年6月18日(1808年7月11日) - 明治3年4月26日(1870年5月26日)は、江戸幕府13代将軍徳川家定の正室篤姫(天璋院)付きの御年寄。名字は朝倉、名は糸[1]。父は薩摩藩御側用人の朝倉孫十郎景矩。母は秋田藩士、阿比留軍吾の娘・民。

藤田と名乗り、島津斉宣の娘で近衛忠煕に嫁いだ郁姫付きの女中として、ともに京都の近衛邸で過ごした。嘉永3年3月29日(1850年5月10日)に郁姫が亡くなると出家して得浄院と号し、近衛忠煕に仕えながら郁姫の菩提を弔っていた。

その後、薩摩藩主島津斉彬の養女篤姫(島津篤子)を近衛忠煕の養女として徳川家定に嫁がせる事が決まり、幾島と改名して篤姫付きとなり、大奥に入るまでの間は教育係などを受け持っていた。その後、近衛家の家士今大路孝由の娘として篤姫(天璋院)と共に大奥に入ったという。大奥では、江戸城と薩摩藩との情報連絡役としても活動し、西郷隆盛を通して江戸藩邸の奥老女小ノ島と連絡をとりあい、将軍継嗣問題や薩摩藩との連携の際に重要な役目を果たした。

なお幾島の家元は、後に今大路氏から島津氏に変わっている。元治元年(1864年)に体調を崩す。翌年までは大奥での所在を確認できる。後に大奥を隠退するが、慶応4年(1868年)大奥に戻って戊辰戦争の際に天璋院(篤姫)の使者として討幕派の薩摩軍に交渉に出向き、江戸城の無血開城にも尽力したとされる。
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明治維新から2年後の明治3年4月26日(1870年5月26日)に63歳で東京にて死去。島津家菩提寺である大圓寺(東京)に葬られた。なお、幾島招魂碑は弟[要出典]が建立し、鹿児島の朝倉家墓地にある。

幾島は公家の養女として大奥入りしながらも、上臈ではなく御年寄の職に就いていた。なお、奥女中分限帳の篤姫付き女中の一覧には、幾島の名は存在しない。代わりに「つぼね(局)」という御年寄の名が記されており、このつぼねは今大路孝由に所縁のある女中とされていることから幾島であろうと推定される。

幾島の出自・生没年や埋葬地は従来不明とされてきたが、2008年、鹿児島市の唐湊墓地にある幾島招魂墓を調査し(朝倉家子孫はその墓の存在を知っていたが調査はしていなかった)、墓の刻銘から生没年などが判明した[2]。なお、同墓の刻銘に、幾島とは別の生没年(文化7年生、明治11年没)も記されていたが、これは招魂碑を建立した幾島の弟[要出典]・朝倉景春の生没年と推定される。

2009年04月26日

死海文書

死海文書(しかいぶんしょ、しかいもんじょ)、または死海写本(しかいしゃほん))は、1947年から1956年にかけて、イスラエルの死海北西の要塞都市クムラン[1]の近くの11箇所の洞窟で発見された、ヘブライ語聖書の断片を含む約850巻の写本の集まりである。

文書は、ヘブライ語のほかにアラム語・ギリシア語で、紀元前2世紀から紀元後1世紀の間に書かれている。この時代に書かれたものとしては事実上唯一のユダヤ教聖書の文書であり、聖書本文の内容が写本を通して劣化されることなく比較的正確に伝えられてきた歴史を証明するものとして、貴重な資料であるとみなされる。
炭素年代測定法と古文書学によると、この文書は紀元前2世紀の中頃から紀元後1世紀にかけて、様々な時期に書かれたものである。少なくとも一つの文書は、炭素年代測定法により紀元前21年から紀元後61年のものだと判明した。この時期のヘブライ語の文書は、エジプトから出土した、十戒の写しを含むナッシュ・パピルスが他にあるのみである。同様に書かれた資料は、マサダの要塞都市など近隣の場所から発見されている。

断片は少なくとも800巻あり、エッセネ派の信条から他の宗派の信条まで及ぶほど異なる視点で書かれている。断片の約30%はヘブライ語聖書で、エステル記以外の全文にあたる。約25%は伝統的なユダヤ教の宗教文書であり、エノク書やレビの遺訓などヘブライ語の聖書正典には含まれないもの(外典・偽典という)である。30%は聖書の注解や、クムランの辺りに住んでいたと思われるいくつかのユダヤ教の宗派の信条や規則や入会条件に関する文書である。残りの約15%はまだ判明していない。ほとんどはヘブライ語で書かれているが、アラム語で書かれたものもあり、また、ギリシャ語で書かれたものも少数ある。 数ある発見の中で重要なものは、
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イザヤ写本(1947年に発見)
ハバクク書注解(1947年)
銅の巻物(隠された財宝等のリスト、1952年に第3洞窟の発掘調査で出土)
ダマスコ文書の初期版
である。

死海「写本」の名のとおり、全巻が職業的筆記者(印刷機の無い時代存在した職業)によって書かれている。線が細く少ないインク量で流れるように書かれており、単語綴りの間違いが少なく行間も狭いこと、などで職業的筆記者と判る。筆跡分析の結果、数百人の異なった筆跡であることが判明している。唯一の例外は銅の巻物で、職業的でない書き手によって銅版にペンで彫られている。

2009年04月10日

ライカ

ライカ(Leica ) とは、ドイツの光学機器メーカーとそのブランドである。

エルンスト・ライツ1世(Ernst Leitz I、1843年-1929年)によってヴェッツラーに創業されたエルンスト・ライツ光学機器製造会社(Ernst Leitz Optische Werke)が、その販売するカメラに「Leitz Camera(ライツ社のカメラ)」と名付けたことに由来するブランドである。このカメラは後にエルンスト・ライツの主力商品となった。以降コニカ、フジカ(富士フイルム)、ヤシカなど「ライカ」に倣ったカメラブランドが作られた。

エルンスト・ライツは1974年にスイスのウィルド傘下に入った。その後エルメスに一時期買収され、その時期にはその革を使用した特別モデル等も発売されていたが経営状態の改善が進まず2年で売却された。現在は顕微鏡部門のライカマイクロシステムズ(Leica Microsystems GmbH)、測量機器部門ライカジオシステムズ(Leica Geosystems AG)、そしてカメラ部門のライカカメラ(Leica Camera AG)の3社に分かれている。

エルンスト・ライツに勤めていた技術者、オスカー・バルナックは1913年、35mm映画フィルムの2駒分を使用する小型カメラ「ウル・ライカ」を試作した。試作した理由として「無類の写真好きであったが、小柄で体力もさほどなかったバルナックにとって当時主流のガラス乾板を使用する木製大型カメラを持ち歩くことは困難だったため、自分にとって使いやすいカメラを求めて作り上げた」という説、「映画用カメラの開発に従事していたバルナックが、当時感度も低く品質も安定していなかった映画フィルムの適正露出を調べるためにそのフィルムの一部を使い実際に撮影してチェックするために開発した露出テスト用カメラが、スチルカメラとしても流用できることに気づいた」という説など諸説ある。

その後2代目社長に就任したエルンスト・ライツ2世(Ernst Leitz II)がウル・ライカに着目、改良を加えて1925年に市販一号機ライカI(A)を生産、販売することになる。

それまでのカメラは密着焼きにより写真を作るのが主流であったが、ライカはフィルムが小さく引き伸ばしを前提としたため、当時一般的でなかった引き伸ばし機は当初からシステムの一環として販売された。拡大に耐えるネガを作るために高性能のレンズが必要とされ、レンズ開発の技術者マックス・ベレークはライツ・アナスティグマット(Leitz-Anastigmat)をはじめとするさまざまな銘玉を世に出した。

また一般には「広角気味のレンズを常備し必要ならトリミングする」という手法が使われていたが、ライカの場合トリミングするとただでさえ小さいフィルム面積がさらに小さくなるため、画角に合ったレンズ交換の必要性が高かった。このため1930年レンズ交換が可能なライカC型が開発され、1931年に全てのカメラのフランジバックが統一され、エルマー(Elmar)3.5cmF3.5、エルマー5cmF3.5、エルマー9cmF4、エルマー13.5cmF4.5、そしてヘクトール(Hektor)5cmF2.5と基本的なレンズが揃った。

その後連動距離計を搭載したライカII型(1932年)を発売、交換レンズとして1931年にヘクトール7.3cmF1.9、1933年にズマール(Summar)5cmF2が発売され、とりわけ報道写真において卓越した画像を多数提供したため、ライカの名声は不動のものとなった。また極めて優秀な人物撮影用のレンズ、タンバール(Thambar)9cmF2.2が1934年に供給され、現代の写真撮影のライカ判全盛の基礎を確立した。

暗い場所での撮影のための大口径レンズ、広角や望遠での撮影のための交換レンズを揃えても2?3kgに収まり、写真家はかつての重い撮影機材から開放された。このことは僻地に持参する時や、被写体の動きを素早く捉えたい時にも役立った。ただし小さいフィルム面積に重要な画像情報が凝縮されており画質のディテールが損なわれることから、旧来のフォトグラファーからは「撮影機材ではなく『スパイカメラ』にすぎない」等と蔑視されることもあった。

当時の日本のカメラメーカーはライカを目標にして技術開発を行っていたが、1954年に発表されたレンジファインダーカメラのライカM3は当時最高とまで言われるほどの技術を余すところなく投入しており、その性能の高さのあまり日本のカメラメーカーがそろって一眼レフカメラへと開発方針を大転換させるきっかけになった。ライカM3は今でも名機と賛美する人が絶えないが、このことが逆に現在主流の一眼レフカメラへのライカの参入を遅らせてしまうことにもなり、1974年頃エルンスト・ライツ社はスイスのウィルド傘下に入ることとなる。

現在ではライカM3の後継となるレンジファインダーカメラ「Mシリーズ」や一眼レフカメラ「Rシリーズ」、コンパクトカメラ、プロジェクター、フィールドスコープなど、さまざまな製品を開発・販売している。そしてそのレンズ描写性能などクオリティの高さから現在でもプロカメラマンをはじめアマチュアでもコレクターや愛好者が多い。またデジタルカメラの分野においてもパナソニックと提携を行っている他、Rシリーズ用のデジタルカメラモジュールやMシリーズのデジタル版ライカM8の開発・発売、中判クラスのデジタル一眼レフカメラS2の開発発表、デジタル一眼レフカメラ共通規格である「フォーサーズシステム」への賛同などが行われている。

日本代理店は戦前からシュミット商会が行っていたが、ウィルド傘下に入った1974年にウィルドの代理店だった日本シイベルヘグナーに変更、その代理店契約が切れた2005年3月1日に日本法人ライカカメラジャパン株式会社を設立、2006年4月22日にはライカ初の直営店を東京・銀座に開店している[1]。

カメラ製品一覧 [編集]

バルナック型ボディー [編集]
ライカLマウントのレンジファインダーカメラ。ただし初期にはレンズ固定であり、レンジファインダーを搭載しなかった。レンジファインダーを装備しない機種も後々まで作られた。レンズに関してはライカマウントレンズの一覧を参照のこと。

ウル・ライカ(Ur Leica 、1913年製作):試作機。暗室で35mm映画用フィルムを詰め、その2コマを1コマとして使用する。「Ur」とはドイツ語で「最初の」を意味する。フィルム巻上と同時にシャッターがセットされるセルフコッキング方式。巻上時にはキャップをしなければならない。レンズは二段に沈胴するマイクロズマール64mmF4.5固定。当時はまだパトローネ入りフィルムはなかったので、装填取り出しは暗室で行う。3台が製作され、1台はバルナックが自分用に使い、もう1台はエルンスト・ライツ1世が所有した。その内の2台が現存している。1975年にライカ発売50周年を記念したレプリカが製作され代理店などに配られたが、これは外観だけを再現したダミーであったため撮影には使えない。
ライカ0(Null Leica 、1923年製作) - ウル・ライカの市場調査用としてシリアルナンバー100から130までの31台が製作された。金属剥き出しの黒塗りだったボディーに革が張られた。ファインダーは当初折畳式の枠ファインダーだったが後にガリレオ式に変更されている。レンズは沈胴式ライツ・アナスチグマット(Leitz-Anastigmat )50mmF3.5固定。シャッタ−はスリット幅可変となりスリット幅2mm(1/500秒相当)-50mm(1/20秒相当)。マガジンを採用し日中のフィルム交換が可能になったが、シャッター幕の構造上フィルム巻き上げ時にはレンズキャップを付けなくてはならない。2001年に折り畳み式のファインダーを装備したバージョンの復刻版が販売され、このモデルではパトローネ入り35mmフィルムが使用できるようになっている。
ライカI(A)(Leica A 、1925年発売)- レンズは沈胴式固定、当初3群5枚ライツ・アナスチグマット50mmF3.5であったが、1925年内容はそのままにエルマックス(Elmax)と改名された。1926年にはゲルツからガラスの供給を受けて製造された沈胴式3群4枚エルマー(Elmar)50mmF3.5[2]を装備したが、ゲルツが1926年にツァイス・イコンになってガラスの供給が止まると1928年にはショットから供給されたガラスでエルマー50mmF3.5[3]が設計された。1930年からは後に交換レンズとしても供給された沈胴式ヘクトール(Hector)50mmF2.5固定となった。
ライカI(B)(Leica B 、1926年発売) - レンズシャッターであるコンパーを装備した。レンズシャッターが採用されたのは、スローシャッターを備えるからだと思われるが、フォーカルプレーンシャッターもスローシャッターを備えるようになったので以後再びフォーカルプレーンシャッターを装備するようになり、レンズシャッターを装備したライカはこの機種だけである。前期型はダイヤルセットコンパー、後期型はリムセットコンパー。
ライカI(C)(Leica C 、1930年発売) - 50mmのファインダーのみ装備する。いわゆる「ライカマウント」[4]を装備しレンズ交換を可能とするが、当初はフランジバックが統一されておらずボディーとレンズに記入された3桁の数字が合致する場合しか使えなかった。1931年にフランジバックが28.8mmに統一され、カメラ毎にレンズを調整する必要がなくなった
ライカII(Leica II 、1932年発売) - レンズのピントリングと距離計が連動する連動距離計を装備し、いわゆる「バルナックライカ」の典型的な姿になった最初のモデル。日本名はライカDIIだったが最近は日本でも単にライカIIと表記されることが多くなっている。
ライカスタンダード(Leica Standard 、1932年発売) - ライカIIから距離計が省略され50mmのファインダーのみ装備する。ライカI(C)とほとんど同じ。1950年まで製造された。
ライカIII(Leica III 、1933年発売) - ライカIIにスローシャッター、視度調整装置、ストラップを装着する金具が装着された(ライカIIの極一部にも装着)。日本名はライカDIIIだったが最近は日本でも単にライカIIIと表記されることが多くなっている。
ライカ250(Leica 250 、1933年発売) - 長尺用マガジンに長さ10mのフィルムを装填し250枚の撮影をする。ダブルマガジンで巻き戻しの必要がない。当初はライカIIIベース、後にライカIIIaベースとなった。通称リポーター(Reporter )
ライカ250モーター(Leica 250 Motor ) - ライカ250にゼンマイ式巻き上げ装置ライカモーター(Leica-Motor )を装備した。
ライカIIIa(Leica IIIa 、1935年発売) - 1932年に発売されたコンタックスに対抗して1/500秒だった最高速が1/1000秒になった。シャッターブレーキが装着されシャッター幕のバウンドがなくなった。スローシャッターにクリックストップがついた。Montesarの刻印があるものはフランスのMontesar工場で生産されたもので「モンテザールライカ」と呼ばれ珍品とされる。
ライカIIIb(Leica IIIb 、1938年発売) - 離れていた距離計の窓とファインダーの窓が隣り合わせになり僅かに目を動かすだけで両方を見られるようになった。

ライカIIc(Leica IIc 、1948年発売) - ライカIIIcからスローシャッターを除いたモデル。シャッター最高速も1/500秒に留まる。
ライカIc(Leica Ic 、1949年発売) - ライカIIcからさらに距離計とファインダーを除いたモデル。アクセサリーシューが2個つく。
ライカIIId(Leica IIId 、1949年製造) - ライカIIIcにセルフタイマーを装備した珍品。427台が製造されたが発売はされなかったと言われている。ライカIIIcにライカIIIfのセルフタイマーを組み合わせた偽物が多数ある。

ライカIIIf(Leica IIIf 、1950年発売) - フラッシュシンクロを装備したモデル。フォーカルプレーン用のシンクロ規格がなかったためフラッシュの種類とシャッタースピードでリストからコンタクトナンバーを選んで設定する煩雑な設計になっている。後期型はセルフタイマーを装備する。
ライカIIf(Leica IIf 、1951年発売) - ライカIIIfからスローシャッターを除いたモデル。シャッター最高速は1/500秒に留まっている。
ライカIf(Leica If 、1952年発売) - ライカIIfからさらに距離計とファインダーを除いたモデル。アクセサリーシューが2個つく。
ライカ72(Leica 72 、1955年発売) - 24×18mm判。ライカIIIaをベースにカナダのミッドランドとドイツのヴェッツラーで製造されたハーフ判カメラ。ごく少数の例外を除きライカIIIfと同じシンクロ装置を備えている。生産台数は約200台。
ライカIIIg(Leica IIIg 、1957年発売) - ライカM3と同様のパララックス自動補正ブライトフレームファインダーを装備したモデル。枠は50mmと90mmm、ただし自動で切替されない。ファインダーの大型化に伴いライカIIIfとの比較で高さ4mm、奥行1mmほど大きくなっている。
ライカIIg(Leica IIg 、1957年製造) - ライカIIIgからセルフタイマーを除いたモデル。正式に発売されたかは不明で珍品。
ライカIg(Leica Ig 、1957年発売) - ライカIIIgから距離計とファインダーを除いたモデル。Iシリーズでは例外的にスローシャッターは装備される。アクセサリーシューが2個つく。

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2009年03月26日

コメント機能の特徴

コメントは動画再生中にコメントボタンを押すことで投稿順に記録され、投稿した時の再生位置から3秒間動画上に投稿が成功した直後から表示される。コメント投稿そのものに時間差があっても、動画内の時間軸においては常に書き込まれた時と同じタイミングで表示される(自分の投稿とそれ以前に書き込まれたコメントが並存する)ことになる。その結果、閲覧者はチャットや掲示板のような時系列とは異なる「実時間を超越した擬似的な時間共有」(運営側はこれを「非同期ライブ」と名づけている)を体感することが出来る。コメントに時間の概念を導入したことで、ニコニコ動画は従来の動画投稿には無い「利用者同士の一体感」を獲得することに成功している。

「コメント非表示」にをチェックすることにより、その動画に関するコメントを非表示にすることができる。デフォルトはOFFであり、コメント非表示設定は記憶されない(「忘れっぽいです」と注意書きされている)。

その他にも、「マイメモリー」に動画を登録することでその時点のコメントを保存できる。保存したマイメモリーの閲覧時には、任意のコメントの表示・非表示を設定することも可能である。

γサービスまではコメントに投稿者の名前を付加することができたが、匿名掲示板のような感覚で気軽にコメントするユーザーが大半であったため、ハンドルネームを付加するユーザーはごくわずかであった。そのため、この名前欄は、「ニコニコ動画 (RC)」サービス開始と同時に廃止された。

コマンド機能
通常のコメントは右から左へと流れていくだけで、文字色も白しかない。しかしコマンド機能を併用することですべての動画に対して文字色や文字の大きさ・表示方法などを数種類から選び、その動画の好きな位置に自由にコメントを行うことができる。コマンドはコメント入力欄の左側にあるボックスに入力(「big」「red」「ue」等)し、位置や色といった異なる属性同士であれば併用も可能。これを応用することで、コメントを利用して動画に字幕をつけることができる。また、コマンドと特殊文字(Unicode)などを複雑に組み合わせたイラストや巨大な文字はアスキーアート(AA)にちなみ「コメントアート」(CA)と呼ばれる。 一般会員が使える色は8色だが、プレミアム会員が使えるのは16色。

保存件数
1つの動画につき、再生時間1分未満で100件、1分以上5分未満で250件、5分以上10分未満で500件、10分以上で1000件のコメントまでが表示されるように構成されており、それを超えた場合には古いコメントから順に表示されなくなる構造となっている。なお、コメントは表示されなくなったものも含めすべてサーバに保持されており、プレミアム会員(有料会員。詳細は後述)であればすべてを閲覧することが可能である。この場合、日時を指定することで、その時に表示されていたコメントを閲覧するという格好になるため同時に表示される件数自体は通常と変わらない。

コメントの表示件数は、当初は全件を表示していたが、2006年12月19日に250件に制限され、2007年1月5日に動画の長さで3段階に切り替わる現在の仕様に変更されている。

コメントの傾向
投稿されるコメント内容は、おしなべてインターネット掲示板「2ちゃんねる」、特にニュース速報(VIP)板に通じる特徴が見られ[要出典]、VIP板が後記の「草」ゆえ「草板」と呼ばれるためニコニコ動画が「草動画」とも呼ばれる所以となっている。これは、ニコニコ動画のサービスを開始当初、2ちゃんねるの管理人である西村博之のブログで紹介されたことが利用者大幅増の要因となったことの影響を大きく受けている。

もっともよく見られるコメントは、2ちゃんねる内でも広く使われている、笑いを意味する「w」(通称「草」あるいは「芝」)を笑いの度合いの数だけ並べたものである(例: 「wwwww」「ちょwww」など。尚「w」の発祥はニュース速報(VIP)板ではなく、ネトゲ実況板である。)。現在では、ニワンゴより公式的に用意された初心者向けの使い方解説動画の中で、「笑った箇所にはすすんで「w」をつけましょう」と公式的に案内されている[6]。

一方でコメントが定型句であったり古いネタを引きずっていることが多かったため同掲示板からのニコニコ動画であるから見るというようなユーザは減少、もしくは嫌悪のされる所以ともなった。また「ニコニコは2chの動画版だ」と意見する人も少なくなく、それを意図して2ちゃんねるの汚点をでっち上げたような偏見も少なからず存在する。

荒らし対策
2ちゃんねる同様匿名性が高いため、ときにはコメントやタグを使って、動画の内容に対する罵倒、他者に対する誹謗中傷や無意味な「荒らし」行為、更に特定の国家、民族、宗教を攻撃する人種差別・ヘイトクライム的な現象なども見られる。また、同一内容のコメントを同一時間に大量に投稿することで映像部分が見えなくなる場合がある(このコメントは一部では「弾幕」と称されている)。β版終了の原因となったトラフィック制限の関係上、現在はアカウント制であるが、動画へのコメント自体は匿名で自由に投稿することができる。ただし、投稿者のIDは投稿されたコメントと同時に保存(当初はID番号がそのまま保存されていたが、2007年8月23日より暗号化されている)されているため、完全な匿名ではない(現在では、後述の「NG設定」に投稿者のIDを指定することで、特定ユーザーのコメントをすべて非表示にすることが可能となっている)。

このような弾幕、荒らしといった迷惑行為が発生する要因として動画の上にコメントを無制限に書き込めるシステムそのものに問題があるともいえる。これは同時にサーバーへの負荷を大きく高めているため、このシステムをとっている以上、前述したように資金力不足などの要因も重なってユーザー配慮などの対応が後手に回る形となってしまい、結果的に多くの批判が寄せられるようになっている。

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2009年03月10日

ガラパゴス諸島

ガラパゴス諸島(―しょとう、西:Islas Galápagos)は、南米エクアドルの西約900kmの太平洋上に浮かぶ123の大小の島と岩礁からなる火山群島。現在も火山活動が続いている。Islas Galápagos は「ゾウガメの島」という意味。正式名称はコロン諸島(Archipiélago de Colón )。

火山活動(ホットスポットの活動)で出来た島で、各大陸とは隔絶された独自の進化を遂げた固有種が多く存在する。天敵になるような大型の陸棲哺乳類が存在しない。

ガラパゴスゾウガメ - 大型のリクガメ。甲羅がドーム型のものと鞍型のものに分けられる。島ごとに多くの亜種に分かれるがそれを独立種とする説もある。
ガラパゴスペンギン - 世界で2番目に小さく、唯一の熱帯性種であるペンギン。フンボルト海流から流れる魚類を餌にしているが、近年のエルニーニョ現象により餌が減り、個体数も減少した。
ガラパゴスリクイグアナ - サンタフェ島にはConolophus pallidusが、その他の島にはConolophus subcristatusが生息していたが、既に絶滅した島もある。主にウチワサボテンを食べるが、移入されたヤギによって食料が奪われ、存続が危ぶまれている。
ウミイグアナ - 海岸に生息し、海草などを食べる。
ヨウガントカゲ - 各島に1種、全部で7種が生息する。
ガラパゴスアシカ
ガラパゴスオットセイ
バク転 ルーシュ ハーブ シニカ テンペラ オーソー スラウ タナトス パンヤゾ いす 夢のカケラ コテージ リターン シーバー ディズム 不死鳥 パドボ 無邪気 アニン シノプシ クリア ラック 君の左手 ライム テストケー ダラス バイア ツルグミ めじり パントモ ニュー ニング エカナ ルノワー シング スカイブル マルメロ パジャマ こむぎ ズボン ウエハース きょうりん ステラ リレー きんかん ドレナ スキーリ パラメデ ローフ アイスティー

1535年、スペイン人の司教フレイ・トマス・デ・ベルランガが、インカ帝国が征服された地へ伝道師として向かう航海の途中、偶然に発見した。その後ガラパゴス諸島は、スペイン船の金などの積載物を狙う海賊の隠れ家として利用され、海賊の中には地図を作ったり、島を命名した者もいた。海賊は食料のヤギを島に放した。

大航海時代には捕鯨船によるゾウガメの捕食やヤギの繁殖が起こり、1832年にエクアドルが領有を宣言すると、次々と入植されていった。

やがて航空路や横断道路が建設されると欧米を中心に観光客が訪れるようになり、環境破壊も深刻になった。今ではダーウィン研究所や国立公園管理事務所の設置、世界遺産への登録、観光客に対するナチュラリストガイド制度などの厳重な自然保護対策を講じている。観光客は、足を洗ってからでないと上陸させないほどの保護体制を取っているが、未だ存在する入植されたヤギや、近年のエルニーニョ現象など問題もある。

最近の調査ではウミイグアナとガラパゴスリクイグアナの共存関係が崩れだし、ウミイグアナとガラパゴスリクイグアナの交尾によって生まれた子供は、両方のDNAを持つに至った。そのため、ガラパゴスリクイグアナには無い爪が生えたハイブリッドイグアナと称される新種のイグアナがみられる様になった。 また前記にあるエルニーニョ現象の影響で、体長が25%も短いイグアナが発見され問題視されている。

進化
チャールズ・ダーウィンが測量船ビーグル号に乗船し進化論の着想を得ることになった航海でこの島にも訪れていることは有名である。ダーウィンは航海の後半、1835年9月から10月までおよそ一ヶ月間滞在した。その間ビーグル号は初めて諸島の地理調査を精密に行った。当時の記録は、彼の『ビーグル号航海記』で読むことが出来る。ガラパゴスの島々で観察した動物相は、南米での調査の経験と共に、進化論のヒントとなった。航海でもっとも印象に残ったことの一つとして、ガラパゴス諸島の動植物が南米のものによく似ていることを挙げている。そして諸島滞在時には気づいていなかったが、イギリスに帰国後、生物の種とは当時信じられていたように不変な物ではなく、変化しうるのではないかと考えるようになった。島には彼を記念した研究所「チャールズ・ダーウィン研究所」が1964年に開設され、現在でも、野生生物の保護・調査に当たっている。

また、このような経過から、特異な生物相を持つ島嶼のことを「○○のガラパゴス」と呼ぶことがある。日本では琉球列島や小笠原諸島がそう呼ばれるが、琉球列島はかつて大陸や日本列島と陸続きで、そこから侵入した生物相が元になっている点、海洋島へ漂着した生物を起源とするガラパゴスのそれとは性格が異なる。したがって、その意味では小笠原をこう呼ぶ方が理にかなっていると言える。

2009年02月22日

ログラン(Loglan)

ログラン(Loglan)は、もともとは言語学的調査、特にサピア=ウォーフの仮説の調査のために設計された人工言語である。この言語は、1955年、もし仮説が真実ならば、異なった方法で考えるかもしれない人々が学ぶ自然言語からかけ離れた言語を作ることを目標としたジェームズ・クック・ブラウン博士により始まった。ログランは、ロジバンとチェンリもまた含む論理的言語として知られる言語の中で最初のものであり、主要なインスピレーションの源である。
ラージヒル ニズム グアナコ キナパー レール ソング ジョッキー ロール ヒアシン オイヒバ アース ピーピーシー ダイエ バッグ リプレース おたま キング アルタイ キング マネキ ぴんぞろ エッジ プロテク ニバナ ヒッチハイ ひこうき ハバネロ ハムエ てんえい プリオン 相合傘相 マッサ ヤダケ ビネガー ファンド イヌイッ モルドバ コマソン カートン てんま りゅうちょう アラス マヌカン アナカン セフレ デビュー スリッペ ノンプロ ライトノ たいむ

ブラウン博士は、この言語とそれの他の適応を発達させるためのログラン学会を設立した。彼は、常に言語を未完成の研究プロジェクトと考え、その設計に関する多くの資料を公開したけれども、その使用に対して知的所有権規制を主張し続けた。このため、後に彼の支持者集団は、同じ原則に沿うが、自由に使えるようにするという意図を持ち、現実の言語としてのその使用を奨励するロジバンという言語を作るロジカル・ラングイッジ・グループを形成した。

ロジバンの支持者は、両方の彼ら自身の言語とログラン学会のそれを示すログランという用語を使う。明確性を必要とするとき、彼らはTLI ログランと後者の言語を示す。結局のところログランと言う用語の非商標権が米国特許商標庁により確認されたけれど、多くの支持者とログラン学会のメンバーがこの用法が不快であると見れば、言語のTLI版のためのログランを差し押さえる。

ブラウンは、ログランができるだけ文化的に中立であり、形而上学的に過度倹約(必須分類が最小に保たれるということを意味する)であるように意図した。英語における必須分類の例は、動詞の時制であり、時制も表さないと定形動詞を表現することは不可能である。

また、ブラウンはこの言語が全く規則的で明瞭であるよう意図した。特に、互いに混同されうる音素は避けられた。

この言語の文法は、これが "logical language" (論理的言語) の省略形であるLoglanと名づけられた理由である一階述語論理に基づかれた。これは、人間-コンピュータ コミュニケーションを適合可能にすると考えられて、ロバート・A・ハインラインがSF小説月は無慈悲な夜の女王でこの言語を言及することの要因となった。

ログランには、名詞と動詞の区別はない。述語は、文の中のどの位置にあるかによって、動詞、名詞、形容詞または副詞として用いられた。それぞれの述語は、議論するところでその項構造を持ち、それは変数であるかもしれない。例: vedma、「XはQの値段でPにYを売る」。接頭辞は、それを最初におくことにより変数の一つを強調すること、そして述語の項構造の再追加することを許容する。例えば、値段を第一変数にするとき、(小語juを伴う)ju vedmaを使う。同様に文は、売り手、商品、買い手について話すため再追加されうる。時制、場所、行為者、行動の種類、その他は任意の「小語」で提供される。述語は複合されうる。前者が「小語」により前置されたとき、述語は他の述語の議論として働くことができる。

この言語は、音素のパターンが常に独自に語へ構文解析するよう設計される。ともに動くときでさえ、語は一方だけで分割されうる。ログランにおいて、英語の語句 "a pretty little girls' school" のあらゆる異なった意味を直接かつ正確に言うことができる。この特徴は、ログランに流暢な人々が他の言語の言語学的仕組みによって支えられない一種のジョークタイプのユーモアのようなことを言うことができないほど非常に明白である。ログランにおいて、ジョン(人)は文字どおりの短い単語であるということも可能である。[疑問点 ? ノート]

ログランとロジバンは、人がいっていることについての感情と態度を表すのに使う広範囲の語を持つが、自然言語と違い、これらは、実際に行われた声明から区別されて明瞭に保たれる。これは、言語がコンピューターのような論理に基づき、人間感情に欠けると推測する人々にとって驚くべきことかもしれない。

大衆文化において
ログランは、ロバート・A・ハインラインの有名な月は無慈悲な夜の女王とロバート・リンマーのユートピア文学Love Me Tomorrowの2つのサイエンス・フィクション作品で言及された。

ログランの発明者、ジェームス・クック・ブラウンも、ログランの台詞が使われるがその言語は別の名前で呼ばれているユートピアSF小説The Troika Incidentを書いた。

ログランは、ロールプレイングゲームFTL:2448において種族間公用語として使われる。

2009年02月06日

赤松克麿

赤松 克麿(あかまつ かつまろ、1894年(明治27年)12月4日 - 1955年(昭和30年)12月13日)は、大正、昭和時代の右翼活動家、元社会主義運動家、衆議院議員。

実妹の赤松常子は戦後の参議院議員、全繊同盟幹部。弟は共に活動家の赤松五百麿。妻の明子は恩師吉野作造の次女。
フィルター ダミー ドライブイ とっこ クーガー ミズム ソリッド カカオ ゲルサンド ザ・サボイ ソケット ジュート デイオ シェークス 澪標恋 フォーラ フーディア 自由の幻想 スペアリブ オーバー スペイン ピーエル スポッタ サチュ レンツェ リベラル インダー かえる ロウバ パイロ メーン フォックス ブラック シロヤ ブロー パトロー フラダンス タイボ ドジェ ひらない ちょうらく ニワウメ テディ コールド マナイ ザック ローブロ デーション ソール フライ

1894年(明治27年) - 山口県徳山市(現・周南市)に浄土真宗本願寺派徳応寺住職赤松照幢、安子の4男として生まれる。
祖父は西本願寺の重鎮赤松連城。与謝野鉄幹は父方の叔父にあたる。
1911年(明治44年) - 徳山中学(後の山口県立徳山高等学校)4年次に、校長排斥運動を起こし退学処分
1912年(明治45年) - 中学検定試験に合格、旧制第三高等学校入学
1915年(大正4年) - 東京帝国大学法科大学政治科入学
1918年(大正7年) - 12月、在学中にロシア革命の影響を受けて、宮崎龍介、石渡春雄と相談の上、吉野作造教授にも協力を仰ぎ新人会を結成。
1919年(大正8年) - 東京帝国大学卒業。東洋経済新報社に勤務。雑誌「解放」の編集に携わる。
1921年(大正10年) - 日本労働総同盟に加わる。
1922年(大正11年) - 日本共産党に参加し中央委員に就任するが、検挙され獄中転向。科学的日本主義を提唱する。
1926年(大正15年) - 労働農民党から分離して社会民衆党の結党に参加し、中央委員につく。
1928年(昭和3年) - 第17回衆議院議員総選挙宮城1区(恩師吉野作造の故郷)から立候補し、落選。
1930年(昭和5年) - 社会民衆党書記長に就任。
1931年(昭和6年) - 石川準十郎、津久井龍雄らと共に日本社会主義研究所を創設。
1932年(昭和7年) - 4月15日、社会民衆党を脱党。満州事変後は右傾化し、社会民衆党自体を親軍化せんと目論むが党内の非難にあい失敗。
5月29日、日本国家社会党を結成し、自身は党務長に就任。しかし、再度国家社会主義から日本主義へ赤松が転向したため、日本国家社会党は瓦解する。赤松はその後、国民協会を設立し、雑誌「国民運動」を発行。
1937年(昭和12年) - 第20回衆議院議員総選挙北海道4区から立候補し当選。7月に日本革新党を結党し党務長となる。9月には陸軍の依頼で上海派遣軍報道部に所属。
1940年(昭和15年) - 大政翼賛会が結成されると企画部長に就任、軍部に協力する姿勢を見せた。
1942年(昭和17年) - 第21回衆議院議員総選挙(翼賛選挙)に軍部と袂を分かち、大政翼賛会非推薦候補として出馬、落選。
1946年(昭和21年) - 戦争協力の罪により公職追放。
1951年(昭和26年) - 追放解除。
1953年(昭和28年) - 日本産業協力連盟理事長に就任。
1955年(昭和30年) - 癌により死去。61歳。

著書
『社會革命史論』(大鐙閣)1922年
『國際勞働總會概況報告』(出版元不明)1924年
『無産階級の政治行動』(科学思想普及会)1924年
『勞働爭議』(日本評論社)
『労働組合運動』(科学思想普及会)1924年
『日本勞働運動發達史』(文化學會出版部)1925年
『轉換期の日本社會運動』(厚生閣書店)、1926年
『勞働歌集』(社會民衆新聞社)1927年
『日本勞働運動發達史』(新潮社)1928年
『社會運動に於ける現實主義』(青雲閣書房)1928年
『解放運動の指導理論』(クララ社)1929年
『社會民主主義の旗の下に』(忠誠堂)1930年
『日本無産政黨史』(白揚社)1931年
『無産戰線を撹亂する者は誰か?』(クララ社)1931年
『五ケ年鬪爭史 社會民衆黨』(社會民衆黨書記局)1932年
『新國民運動の基調』(萬里閣)1932年
『故吉野博士を語る』(中央公論社)1934年
『人民戰線打倒論』(国民協会出版部)1936年
『日本人の新教養』(教材社)1942年
『日本社會運動の歴史的研究』(労務行政研究所)1948年
『日本社會運動史』(岩波新書 青83)1952年
『東洋への郷愁』(日本政經公論社)1953年
『勞使関係の在り方』(元々社)1954年
『東洋と青年』(池田書店)1954年

2009年01月22日

国際法優位主義は、国際法秩序が各国

この問題は、古くは、「一元論」(monism)対「二元論」(dualism)として争われてきた。特に「一元論」の国際法優位主義は、国際法秩序が各国の国内法秩序を包合し、全体として国際法が優位するとする。しかし、国際判例や国家実行は、一貫して「二元論」の立場を支持してきている。「二元論」とは、国際法秩序と各国の国内法秩序は、独立した関係にあるとする立場である。

まず、国際法秩序における国内法の地位を述べる。

国際判例は、一貫して「二元論」の立場をとる。国内法は、国際平面では単なる事実にすぎない。国際司法裁判所は、1989年の「シシリー電子工業会社事件」判決において、公の機関の行為が国内法に違反するからといって、それが国際法における違反とは必ずしもならない、と判示した(I.C.J.Reports 1989, p.74, para.124)。さらに、ウィーン条約法条約27条は、「当事国は、条約の不履行を正当化する根拠として自国の国内法を援用することはできない」と規定する。

次に、国内法秩序における国際法の地位である。

各国は、それぞれ多様な国際法の国内法秩序への編入方式を採用している。一つの立場は、「編入一般的受容」(incorporation or adoption)方式であり、国際法はなんら国内的措置を経ずに、国内法秩序に直接適用されるとする方式である。第二のものは、「変形」(transformation)方式であり、国際法を国内法秩序に適用するには、国内法への変形が必要とする方式である。第三のものは、「執行指示」(Vollzungsbefehl)方式であり、国内の法適用機関に国際法を直接適用するように指示、命令をし、そのための権限を国内的措置により執るという方式である[12]。

条約と慣習法によっても、各国においてそれぞれの扱われ方が異なる場合が少なくない。各国毎に詳しく述べるには余白がないので、ここでは、特に問題となる「自動執行力のある」(self-executing)条約の国内法秩序への直接適用性(l'applicabilité directe)について述べることにする。

米国は、憲法4条により、「自動執行力のある」条約は、直接、米国国内法に適用される(「編入一般的受容」方式)。しかし、イギリス及びコモンウェルス諸国の場合には、たとえ「自動執行力のある」条約でも、国内法に変形する必要があると判例で確立している(「変形」方式)。他のヨーロッパ各国では、「編入一般的受容」方式をとる国として、ベルギー(判例で確立)、スペイン(最高裁判例で確立、通常、公布が必要)、フランス(官報で公示が条件)、ギリシア(判例で確立)、ルクセンブルグ(裁判所が判断する)、オランダ(改正憲法93条、公示が必要)、「変形」方式をとる国として、アイルランド(憲法29条5項)、デンマーク(憲法19節によれば国会の立法または行政命令が必要)、「執行指示」方式を採る国として、ドイツ(「承認法」による)、イタリア(執行命令)、十分な結論が確立していない国として、ポルトガル、スイスがある[13]。我が国の場合には、判例は一貫して、「自動執行力のある」条約は、天皇の公布によって、国内法秩序に直接適用されるという立場をとっており、「一般的受容方式」に分類される(憲法98条2項、7条1号)[14]。ただし、国際法は法律には優位するが、国内では憲法が最高法規であるとする立場が通説である。

最新の動向によれば、特に国連安保理決議の国内への直接適用性が議論となっている。すなわち、テロ行為に荷担する行為を規制するために国内の私人や法人に直接、義務を課す安保理決議の妥当性が欧州司法裁判所(EC司法裁判所)によって審理され、同裁判所は、安保理決議が強行法規(jus cogens)に反する場合にはこれを無効とできると判示した(2005年7月21日「Yusuf事件」第一審判決(T-306/01))。同判決は、安保理の司法的コントロールの可能性に道を開いたことでも、大変注目されている。
はにー ファイバ ていん| ジェス オフス たけざお おはじき 一等星 アップ ファー イコノロジー プロテイ ローカル シンプ けん蔵 フリース メモリー はこだて マルチ パルプ シェーバー トライアン ミンク ブティッ 翠の月 ゲスロ コピペ シエラ ネガティブ ずいき ゼンマイ きない トロッ デニール プロデビー ハネム オフタ リヤカー ドーミー カーウォ ボーイ 三和音 ゾル ぎぼう 大逆転 小さい魔女 ソダラ 夢列車 ゴスロ マジッ

EC法秩序と国内法秩序の関係は特殊である。EC法、特にその二次法規のうちの「規則」(le règlement)は、加盟国の国内法秩序に直接適用される(EC条約249条)。判例も、「規則」が加盟国の国内法秩序に直接適用され、かつその国内法に優位するという点で確立している(1964年「コスタ対ENEL事件」欧州司法裁判所判決)。EU/EC各国も、その国内憲法において、「規則」の国内法秩序における直接適用性を認めている。しかし、「指令」(la directive)の直接適用性については、個別的に検討する必要がある。また、EC法と各国憲法との優位性については不明瞭であり、加盟国の立場では、ドイツ(1974年の「Solange I事件」および1986年の「Solange II事件」連邦憲法裁判所判決)、イタリア(1973年12月27日、憲法裁判所判決)などは、国内ではEC法より憲法が優位する立場をとっている。

国際法は「法」であるか
国際法は、国内法のような立法・行政・司法の中央集権機関がなく、組織的な法の適用、執行の機構を欠いている。そのため、国際法の法としての性格を否定する学説が19世紀末から20世紀初頭に特に見られた。これは、すなわち、国際法の強制性の問題である。例えば、オースティン(J.Austin)は、実定法は「主権者の命令」であり、義務違反に対する制裁を予定しているものであるが、国際法にはそうした条件がなく、単なる「実定的な道徳」にすぎないとした。

我が国は、江戸時代後期、米国との間に締結された1854年の日米修好通商条約によって「開国」し、続いてその他ヨーロッパ諸国とも条約を結んでいった。それらの条約は、領事裁判権その他の特権を欧米諸国に認めた「不平等条約」であったが、ともかく、それによって日本が「ヨーロッパ近代国際法」に接する機会が得られ、次第に国際的実践の規範としての国際法への自覚を高めていったことは注目されると説かれる[15]。(一方、20世紀以前には、ヨーロッパの他に、中国圏、イスラム圏といった世界が存在し、それぞれ「法」・「儀」・「礼」や「シャーリア」(shari'a)といった法で規律されており、20世紀にそれらの文明とヨーロッパ文明が衝突した、と指摘されうる[16]。)また、明治政府は、五箇条の御誓文で、万国公法を「天地の公道」としてその遵守を謳い、その後、歴代の政府がヨーロッパ国際法の知識の移入、教育、研究に大きな力を注いだ。

現代の国際法においては、その強制力は、国際法違反行為に対する被害国による「対抗措置」(Countermeasures; les contre-mesures)(「国家責任条約草案」49条以下)や報復(retortions)(合法的な措置)といった形で存在する。特に、制度的にも整備されているものとして、GATT/WTO法違反と認定された行為についての世界貿易機関(WTO)紛争処理機構(DSB)の決定、その実施、DSBが承認する譲許その他の義務の停止がある。また実際、ほぼ全ての国が、国際法を法として認識し、その法務を扱う部門を外務省に設置し、かつこれを遵守しているため、現在では国際法の法的性質を肯定する学説が通説となっている。

しかし問題点もあり、例えば、国連安保理の表決制度には、常任理事国(米、英、仏、ロ、中)の拒否権があり、事実上、これら常任理事国への憲章七章に基づく強制措置はできない。国際司法裁判所の判決も、一方の当事国がそれを履行しない場合には他方の当事国は安保理に訴えることができるが(94条2項)、前者が常任理事国の場合には事実上、安保理の措置はなされない。そこで、今日でも、国際法は「原始法」(le droit primitif)であるという主張がなされる場合もあるが、対して、今日の国際世論の力(la force publique)を認めこれが国際法の実効性を支えているという指摘もある[17](近年、確立しつつある「国際市民社会」International Civil Society概念も参照せよ)。

国際法の法的拘束力の基礎については、近代より議論されてきており、国家の基本権の理論や、国家が拘束されることに同意しているからとか、ケルゼンの根本規範の原理や、自然法から説明する立場など様々であるが、究極的には、人間が理性的な生き物として、その生きていく世界を支配する原理が秩序にあると信じることを強いられていることにある、とする見解[18]が一つの有力な説明である。

2009年01月15日

フロイトは、マルクス、ニ?チェとならんで

ババロア フィラン マッチン ビジネス ハワイ ヒューズ ダグアウト マルチ プレムハブ スノーフ 流星群 にんきょう ミステ ぶんぶん ブラテ ハイヒール シングル ラバト ブルンジ バックオ ナッソー トラン ラムサー 鈴蘭 セラセラ つるみ マルセイ コピーイノ ゲーター ブラッド トパイ バーバレ パブリ レベニュ フォーム メタ いささや ハイウエイ ダルトン ハリアー ビーコン ガター サイドカー あぼがど ジンセン スプリング ユリノ ジャーゴン アニムス ビッドレ

フロイトは、マルクス、ニ?チェとならんで20世紀の文化と思想に大きな影響を与えた人物の一人である。しかし、彼の理論に対しては生前から批判も絶えず[5]、彼の業績をどの程度評価するかは未だに議論の対象になっている。当時の常識とは180度異なる見解をとった意味で、コペルニクス、ダーウィンとも並び称される。イギリスの王立の科学協会から、ニュートン、ダーウィンに続いて三人目となる科学的評価も受けている。また、シュールレアリズム運動を率いた作家たちはその美術運動の理論的基礎をフロイトに求めるなど精神分析の登場は20世紀文化史における一大事件といってもよいだろう。

正常か異常かを問わず人間の心理は共通同一の原理で動いており、人の行動には無意識的な要素が作用していると考えることは、自身の合理性を疑わない19世紀の知識人を驚かせた。フロイトは、催眠状態での暗示によって、被験者が実験者の促した行動をとり、かつなぜその行動をとるのかしばらくわからずにいた事実から、「無意識」の行動における影響について着想を得たのだった。

フロイトは当時得体の知れない流行となっていたヒステリーの治療にあたり、患者[6]が「おしゃべり」をすることで症状の軽減が見られることに着目し、こうして「自由連想法」が生まれた。[7]

フロイトの「力動論」はエネルギー保存の法則を元にしているとも言われる。患者の症状は無意識に抑圧された内容の形を変えた表れである、ととらえ、ヒステリー患者たちが身体的な症状部位に関する言葉、関連したエピソードを想起するに至ってから症状から回復することも確かめられた。[8]

また、戦争帰還兵達との臨床経験や娘の一人の死を通じ、独: Todestriebすなわちデストルドー(死の欲動)あるいは タナトス(死の本能)についても考えるようになった。(参照:生の本能・死の本能)

フロイトがこだわった点、彼の精神分析理論の科学性については疑問の余地がある。カール・ポパーは実験やデータなどの反例による理論修復の機会を拒否する精神分析論の独善的な姿勢を批判している。フロイトの精神分析は、「無意識の仮説」によって解明されるべき問題行為が、推理的方法を用いる、一人の”客観的証人(分析者)”にとってのみ意味を持ち、”本人”にとって意味を持たないという、正義と才能の確実な保証の無い分析者による「独裁」が行われる危険性を産み出した。[9]  [10]。自身の理論への一方的とも言える還元という問題を、精神医学に上乗せした根源とは、無神論者でユダヤ人であること、そして金銭面と社会情勢の影響によって、更に彼の男性的な欲動によって、どうしても権力的なものを求めなければならなかった事によると思われる。

しかし、フロイト自身がこの精神の病理という分野に大きなスポットライトを当てた業績は誰にも否定できないものがある。フロイトの時代の医学では精神病理の治療はほとんど進んでおらず、脳内のメカニズムを解明する可能性はほとんど存在しなかったのだ。一方でフロイトが、良質な科学者がそうであるように、現象を重んじ、しばしば理論を修正していっていたという意見がある。彼の判断の基礎には臨床的な経験があり、彼はそれ等を重んじたのである。そのこと自体は称賛に値する。

しかし、現代の精神医学においては、フロイトの理論自体が高く評価されているとはいえない。その理由としては、嗜好性の強い独特の性的一元論に代表される、およそ通常の現代人の感覚にそぐわない違和感のある内容という事があげられる。性的一元論は、そもそも彼自身の心の病理からくるとする意見もあるが、当時のヴィクトリア朝時代の抑圧性の非常に強い時代にあっては、まさに紳士を自認する人間たちが性的な領域を否認することに、フロイトは欺瞞を感じたのだった。性理論の形成に関しては、当時の抑圧の強い時代において、フロイトがその観点の強調に革命的意味を持たせていたことを念頭に置く必要がある。また、例えば心的外傷(トラウマ)といった考えは、現代においても通用する。

だが、性理論への偏向自体はとりもなおさず、フロイト自身の政治的な立場から自身の主張を一つのものの見方に限ってしまうことになり、科学者としての彼の姿勢に非難があがる結果にもつながった。さらに、それ以後の精神分析や心理学の発展により、フロイトの主張とは異なる新たな見解や方法が生み出されてきた歴史的経緯もある。

フロイトは自身も語るように一介の開業医ではあったが、精神病理に対する治療のアプローチとして心理的な側面を発見したのは一種の革命に近いものがあったといってよいだろう。科学といえば唯物論に偏りつつあった当時の風潮の中で、人間の心理に主眼を置いた視点の重要性は、見逃すべきではない。彼は「愛」について唱えていたのだという意見があり、それははからずも彼がその晩年において、人の一生を「仕事」と「愛」に集約していたエピソードからもうかがえる。

関係者
アンナ・フロイト
アルフレート・アードラー
ヴィルヘルム・ライヒ
ヘルベルト・マルクーゼ
オットー・ランク
メラニー・クライン
カール・ユング
ジャック・ラカン
フェレンツィ・シャーンドルとハンガリー学派

脚注
^ 彼が心理学者であるか否かは心理学、精神分析をどのように定義するかにより判断が分かれる。少なくとも、彼自身は著作の中で自分を心理学者だと述べている(例えば、Freud(1914/1999) S.205, Freud(1933/1999) S. 13)。
^ しかし、フロイトはやがて、「不安神経症」の原因として「性的虐待」を除外するようになる。なぜならば、性的虐待を受けたと訴える患者の多くが、実は性的虐待を受けていないことが分かってきたからだ。無論、被害が皆無だったわけではなく、フロイトは少なくとも数件においては性的虐待がほぼ確実だと報告している。 フロイトはしかし、他の大部分が事実に反するからといってそれを無視はせず、むしろ「なぜ」患者がそう考えるのかという側面から考察を進めた。いわゆる「客観的事実」としては誤りでも、患者にとって何かしらの「心的現実」があるという考えである。 発達心理学者E.H.エリクソンはフロイの理論を元にして、神経症患者達が性的な側面において損なわれており、患者達が過去において例外なくその発達課題を適切にこなせていなかったことを見いだした。
^ すでにシャルコーが、ヒステリーの原因を「閨房の秘密」にあると彼にほのめかしていた。
^ 後にフロイトは大学教授の職を手に入れた。
^ 「ユダヤ人の似非科学」というような揶揄、非難が浴びせられた。 また、苗字のFreudはヘブライ語: ????? Simcha(シムハ "喜び"を意味する)の独訳に由来するが、英語圏では、初期の精神分析学に対する社会的不信から、しばしばFraud(詐欺師)と揶揄された。一方、精神分析的解釈からすると、言葉の錯誤には無意識の働き(コンプレックス等)が読み取れるため、精神分析派はそうした現象を逆に一種の錯誤の結果として解釈するかもしれない。
^ フロイトは医学畑出身でこの用語を用いた
^ フロイトにこの重要な洞察をもたらした聡明な一人目の患者は、やがて有名な社会革命家になった
^ 彼は、抑圧された願望自体は消えることなく、無意識の領域に追いやられる、とした。また、意識の注意が和らぐ睡眠中の夢にも、その現れが見られるとし、その例として彼は、南極探検隊が遭難した際、食糧が底をついた彼等が一様に見た夢が、食糧にかんするものだった例を挙げている。抑圧される内容の中には、意識にとって受け入れがたい性質のものもあり、本人にとって想起が苦痛となる性質のもある。それらは、忘却の対象となるが、無意識にとどまり、症状が見られる場合は、抑圧された何かしらのエピソードが原因だと考えられた。自由連想法では意図的に本人の批判的意識を和らげるよう促し、抑圧された部分が意識にのぼってくるように工夫し、その解明を図った。
^ フロイトは意識から無意識へ抑圧された内容の表れが夢において見られるとしたのだが、普段抑圧されがちな内容が報告されれば、フロイトの理論を支持すると見なし、そうした内容を見なかったという報告があっても、「フロイトが間違っていると言いたい」という患者の願望の歪曲された形だ、といった解釈をした。仮定を支持するような現象にしろ否定するような現象にしろ、結局は仮定を支持する形で理論に吸収されることになり、それに対する疑問が投げかけられているわけだ。
^ 心理的な現象を説明する際に、本人の主観的報告に基づくデータの科学性を疑問視する声があるが、人の心理には主観的な側面も重要な意味を持つために、平均的な抽象的データのみに重点を置くことは、個々の個別性を無視してしまうことになり、現象の把握としては不十分だと言える。(が、後者は大まかな比較をする際に役に立つ。また、後年アメリカの心理学では、操作的手法を用い、カウンセリングを行った場合と行わなかった場合の結果の違いを明確に示し、主観・客観両面からのアプローチするものが現れた。)フロイトは客観的には事実でないとしても、本人に真実性をもって迫っている場合を、本人にとっての「心的現実」ととらえた。

参考文献
小此木啓吾 『精神分析の成立ちと発展』(精神医学叢書) 弘文堂, 1985年
Freud, S.(1914/1999). Zur Psychologie des Gymnasiasten. In: Gesammelte Werke (Bd. 10, pp. 203-207). Frankfurt am Main: Fischer Taschenbuch Verlag. (Original work published in 1914)
Freud, S.(1933/1999). Warum Krieg? In: Gesammelte Werke (Bd.16, S.11-27). Frankfurt am Main: Fischer Taschenbuch Verlag. (Original work published in 1933)
ピーター・ゲイ『フロイト』鈴木晶 訳 みすず書房, 2004年 ISBN 4-622-03188-4,
ISBN 4-622-03189-2

アンリ・エレンベルガー『無意識の発見』木村敏・中井久夫訳 弘文堂, 1980年
鈴木晶 『(図解雑学) フロイトの精神分析』 ISBN 481633646X
新宮一成・立木康介編 『フロイト=ラカン』講談社選書メチエ, 2005年 ISBN 4-06-258330-5
ハンス・アイゼンク 『精神分析に別れを告げよう―フロイト帝国の衰退と没落』 ISBN 4891750855 ISBN 4826502281
ロルフ・デーゲン 『フロイト先生のウソ』(原題=『Lexikon der Psycho-Irrtuemer』(心理学間違い事典))ISBN 4167651300